知里幸恵の百年 20世紀の黄昏にたたずんで、この世紀を生きた女性10人を日本で選ぶとすれば、彼女だけは落とせないと思うのは知里幸恵(ちり・ゆきえ)である。 「その昔この北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびり楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの海、白い鴎の歌を友に木の葉のような小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀る小鳥とともに歌い暮らして蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とるかがりも消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。・・・(岩波文庫より)」 知里幸恵が残した唯一の本、「アイヌ神謡集」の序文 である。それは明治以降、日本語で書かれた最も美しい文章の一つであろう。この本1冊を書き残すために、天は彼女を世に送ったともいえる。生来、心臓が弱かった知里幸恵は、1922(大正11)年9月18日夜8時半、この本の原稿校正をすべて終えた直後に、東京の金田一京助宅で心臓マヒにより帰らぬ人となったのであった。享年わずか19歳。 知里幸恵は1903(明治36)年、ヌプルペッ(登別:のぼりべつ)で生まれた。幸恵が6歳以降を過ごした旭川のチカプニ(近文:ちかぶみ)では、「銀のしずく降るふる」の文学碑の前で、誕生日にあたる6月8日に彼女を記念する催しが地元有志により行われている。しかし幸恵が生まれ育ったふるさと、死を予感した彼女がひとえに帰りたいと願ったふるさと、そして今も彼女が眠るふるさと登別は、これまで幸恵に対してほとんど無関心であった。登別だけではない。北海道全体が、知里幸恵という女性を正当に評価しているとは言い難いのである。それを異様なことと感じ、私たちは昨年から有志で幸恵の命日にお墓参りを始めた(写真)。4年間、呼びかける輪を少しずつ大きくしながらそれを続けて、彼女の生誕100年にあたる2003年までには、誰でも幸恵を知っているというくらいにはしたい、というのが私たちの願いであった。 そう思ったのは、アイヌ語地名のことがあったからである。 1997年、日本人はようやく北海道旧土人法を廃止して、アイヌ文化振興法(いわゆるアイヌ新法)を成立させた。先進国とよばれる国々のなかで、先住民を土人よばわりするこのような法律を20世紀の末まで堂々と持ち続けたのは日本だけである。だがアイヌ新法でも、アイヌ民族はついに先住民族として位置づけられることはなかった。アイヌ新法にはさらに大きな問題がある。そこでうたわれている「アイヌ文化の尊重や振興」が、ともすれば伝統的な舞踊や儀式の保存にかたより、日常生活のなかで私たちがアイヌ文化を生き生きと感じ尊重できるような振興が意図されているようには思えないからだ。伝統的な芸能の継承ももちろん大切であるが、文化の尊重とは、日々の生活のなかで、私たちがそれにたいして常になにがしかの関心を払うことでなければなるまい。そうした意味で、言語はまさに、文化である。本来なら、アイヌ文化の尊重と振興とは、まず第一にアイヌ語の尊重、振興であるはずだ。小学校や中学校でたとえ数時間でもアイヌ語を教え、またアイヌ民族の歴史や文化を教えるカリキュラムの実施がともなわなければ、「アイヌ文化を尊重した」などとは口が裂けても言えないであろう。 しかしアイヌ語で自由にしゃべったり、その会話を耳にするという状況は、北海道ですらすでにきわめてまれになってしまっている。そうしたなかで、いきなりアイヌ語を教えることは難しい。だがたとえアイヌ語をしゃべれなくても、大人でも子供でも、誰でも日常的に使えるアイヌ語がある。それがアイヌ語地名だ。 北海道の地名がほとんどすべてアイヌ語地名に由来することは周知の事実であろう。しかし開拓の過程で私たちがそれにむりやり漢字をあてはめ、漢語化してしまったため、もとの発音や意味は失われてしまった。アイヌ文化の尊重・振興の第一歩は、いま使われている漢字化された地名に、もとのアイヌ語地名を併記することから始まるのではないだろうか。アイヌ語地名をカタカナやローマ字で、漢字地名と同じ大きさに書く。音節ごとの意味もあわせて書けば、そこでアイヌ語の初歩的学習にも役に立つ。そう考えて、「アイヌ語地名の併記」を求める要望書を北海道に送り、併記を求める署名運動を始めたのは2年前のことである。すでに1万人を越える署名が集まり、道も、今後の施策のなかにアイヌ語地名の普及をうたうまでになったが、まだ併記まではふみこんでいない。 誰だって、自分の名前を間違って書かれたらいい気持ちはしないであろう。だが、アイヌ民族の身になってみれば、それどころの話ではない。幸恵の生まれたヌプルペッ{色の濃い(温泉で濁った)・川}は登別、育ったチカプニ{鳥が・よる木(いる処)}は近文と、全く意味の異なる漢字が当てられているのだ。メムアンペッ(泉の・ある・川)はなんと女満別(めまんべつ)になってしまった。女が満ちて別れるというのではまるでメロドラマである。 知来別(チライベツ)川、伊茶仁(イチャニ)川、漁(イザリ)川。 漢字で書かれてしまうと想像もできないが、チライはサケ科最大の淡水魚と言われるイトウのこと、イチャニ、イザリは、もともと鮭の産卵床を指すアイヌ語イチャンであった。この十年ほど、北海道の川を歩いてきてつくづく感嘆するのは、アイヌ民族がいかによく川を見、その自然を的確に表す地名をつけてきたか、という事実である。たとえば札内(サツナイ)川は、粗い砂利からなる扇状地河川ゆえに、夏になると水量が減って白っぽい河原が広がる。だから、乾く(サッ)川(ナイ)なのである。アイヌ語地名をその意味ともども併記すれば、その川がもともとどんな自然をもっていたかがよみがえってくるのだ。 幸恵が書き残した「アイヌ神謡集」の冒頭はあまりに有名になった次の詩句で始まる。 「シロカニペ ランラン ピシカン(銀のしずく降る降るまわりに) そう歌いながら流れにそって下り、村の上を飛んでいったのは神の鳥、シマフクロウであった。魚を食べるこのフクロウは、川ぞいにしかすむことができない。 川ぞいの豊かな森(河畔林)がすっかり伐採され、魚も減ってしまったいま、絶滅の危機に瀕しているシマフクロウがわずかに生き残るのが道東の西別川だ。この川も、アイヌ語ではヌー(豊富)・ウシ(ある)・ペッ(川)であった。何が豊かかは、言わなくてもわかる。鮭が豊かにいて、シマフクロウもアイヌも食べるには困らなかったのだ。 幸恵がその命と引き替えに私たちに伝えてくれたのは、シマフクロウやヒグマたちの象徴する自然を神として畏れ、自然と共存するアイヌ(人間)の生き方であった。それこそ、20世紀を通じて、近代文明が壊し続けてきたものに他ならない。その昔にもどることはできないが、失ったものの大切さに気づき、それをとりもどそうと努力することはできる。幸恵の人生を知り、彼女からの贈り物を受け取り直すことで、21世紀の日本を、誰にとっても、また森や川や干潟の生き物にとってもすみやすい国にしたいと思う。 小野 有五 (図書 2000年9月号) |